「僕」が育んだ奇跡の友情
友情には何一つ書類が必要ない。
結婚には婚姻届がある。
子どもができたら出生届を出す。
親が死んだら死亡届を出す。
そんな風に「家族」と呼ばれる人間関係には法律的な裏付けがある。
だけど友情は違う。
誰かと仲良くなるのに契約書はいらないし、離れるときに裁判をする必要もない。
どちらかが友達を止めたいと思った段階で友情は終わる。
だからこそ気楽だし、だからこそはかない。
だけどその友情に見えるものも、実は「教室で一人にならないため」だとか「職場でうまくやるため」といったように、必要に迫られて育まれることが多い。
ほとんど共通点のない人々が、「純粋な友人」になることは非常に難しい。
奇跡と言ってもいい。
その意味で『大家さんと僕』は奇跡の物語である。
「僕」ことカラテカの矢部太郎さん(相方さんの騒動、大変でしたね)が、木造二階建ての一軒家に引っ越すところからマンガは始まる。
家は外階段になっていて、二階が借家で、一階に大家のおばあさんが住んでいる。
彼女は時にお節介。
洗濯物を干していて雨が降れば電話をくれる。
お裾分けも当たり前。
初めは大家さんとの距離感に戸惑っていた矢部さんだったが、ついには一緒に旅行に出かけるような深い仲になる。
興味深いのは、大家さんと僕は性格から文化資本まで、何もかもが違うということ。
いちいち話はかみ合わない。
それにもかかわらず、二人は仲良くなった。
ここまでが一巻のあらすじ。
この奇跡のエッセイマンガは大変な反響を呼び、約80万部のベストセラーとなった。
世代を越えた友情の物語は、現代のおとぎ話のようだ。
適度に力の抜けた絵柄の、8コマごとに完結する構成も非常に読みやすい。
その『大家さんと僕』に待望の続編が出版された。
だけど一巻とはまるで違う。
なぜなら本作は、喪失の物語だから。
すでに公表されている通り、大家さんのモデルになったおばあさんは、もうこの世にはいない。
そして矢部さんも新しい家へと引っ越しているという。
続編ではきちんと大家さんとの「別れ」も描かれている。
だけど主題は決して「別れ」ではない。
むしろ前作以上に大家さんが主役のエピソードが多い。
仏壇用のロウソクとさくらんぼで誕生日を祝ってくれる大家さん。
悲惨な戦争経験について回想する大家さん。
電子レンジを爆発させたことのある大家さん。
どの大家さんも愛おしい。
どのページを開いてもくすっと笑えるのは前作と一緒。
だけど違うのは、作者である矢部さんと読者が、この物語の結末を知っていること。
だからその分、どんな些細なエピソードでさえも、かけがえのないものに思えてくる。
笑いと悲しみが同時に押し寄せてくる。
相変わらず、二人の関係性は興味深い。
大家さんは矢部さんとの関係を「血のつながらない親族」と表現する。
矢部さんも、芸人にとってかき入れ時の年末年始、仕事を断ってまで大家さんと過ごす。
そんな奇跡の友情は、どんな結末を迎えてしまうのか。
それはもう読んでもらうしかないが、読後感が決して悪くないことだけは約束しよう。
むしろ多くの読者は、矢部さんという媒介を通して、大家さんと何らかの友情を育んだという感覚を持つのではないか。
友情とは、たかが死ぐらいで終わるものではないと思う。
大家さんは家族との思い出を語りながら、こんなことを言う。
「こうして矢部さんとお話ししていると亡くなった父や姉にまた会えるわ」。
本作も同じである。
『大家さんと僕』を読むたびに、「僕」や読者は大家さんに会うことができる。
そこに何らかの意味での喪失は存在するが、決定的な別れではない。
「僕」が育んだ奇跡はそう簡単には終わらない。
矢部さん、素敵な人を紹介してくれてありがとう。