昔、童話だったか、昔話だったかで、
「いのちのろうそく」と言うお話を
聞いた(読んだ?)事があり、
死に接する度に頭をよぎります。
”どじつきさん”のお話を聞いた時も、
「私のろうそくを分けてあげられたら」と…。
闘病日記は、サイト公開の2カ月近く前、2001年1月22日から
2001年1月22日(月)
「次はブロンコ(気管支内視鏡)ですかね。」
自分のCT像を見て、目の前にいる放射線科医に発した最初の言葉である。
それから、しばらく頭の中が真っ白になった。
そして、最初に浮かんだのは、日航ジャンボ機墜落事故で、家族に走り書きのメモを残した父親のことを伝えるテレビ番組だった。
「あの人に比べたら、自分にはまだ時間がある。」そう自分に言い聞かせた。
残して行く事になるであろう、
ご家族への想いが…。
亡くなって、もうじき19年
お子様達も、成人されているでしょうか?
入院、放射線治療と化学療法を受けながら精力的に活動
2001年2月8日(木)
両親に手術不能癌であることを打ち明けた。
母は当然泣いた。
父は、「葬儀や墓はどうする?」と聞いた。
さすがは我が父である。
脱帽。
2001年2月9日(金)
外泊。
遺影用の写真を撮る。
2001年2月11日(日)
勤務先のパソコンを片づける。
生きがいだった医師としての仕事に復帰することはもうあるまい。
寂しい。
ご両親に伝える時、
どんなにお辛かった事でしょう。
もし、私の告別式であいさつできるなら・・・
本日はご多忙のところ、私の葬儀に参列いただきまして、誠にありがとうございます。
私は、子供の時からまじめだけが取り柄でしたので、周りの方々には、全くおもしろ味のない人物であったことと思います。
子供の頃から病弱で、両親に心配ばかりかけてきた私にとって、医師という仕事はまさに生きがいでした。
病院でも冗談ひとつ言わない私は、職員の方々にもつきあいにくい医師だったことでしょう。
ただ私は、患者さんの前でだけ営業用の顔をするのではなく、職員や職員家族の方が病気になった時、「先生、主治医になって下さい。」と頼まれるような医師でありたいと常に考えて仕事をしてきました。
やっと一人前の内科医として自信もでき、これからますます故郷の地域医療に貢献できると思っていたのですが、お別れしなくてはならなくなりました。
42年間のこれまでの人生は、いつも目標を持ってがんばってきました。
公私ともに充実した幸せな人生であったと皆様に感謝しております。
ただ一つ心残りなのは、家族のことです。
私は、夫として妻を幸せにする誓いを守れず、親として子供達を成人するまで育てる義務を果たせませんでした。
遺された家族は、これからいろいろと苦労することになるでしょう。
どうか皆様、私の家族にこれからも暖かいご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
ありがとうございました。それでは、さようなら。
とまあ、こんな感じでしょうか。
自分の葬式ですから、何かメッセージを伝えたいとは思いませんか?
私は、幼少時から、
「死」が恐くありませんでした。
人生に悔いが無いのではなく、
夢を持ったことがないからかもしれません。
私のろうそくでよければ、
ほんとうに貰って欲しかったです。
お読み頂いてありがとうございましたM(_ _)M